世界で初めて原子爆弾が降ってきた街 広島。あの日も市電が走り人々の暮らしがあった。
原爆ドーム。当時は近代的な立派な建物で 周りには活気あふれる日常があった。画面右手前には被災前の姿が。5キロもの上空から相生橋を目印として落とされ 600m(スカイタワーの高さ)で爆発した「リトルボーイ」。この1発により周辺の人たちは一瞬にして全身焼けただれ、吹き飛ばされて命を奪われた。次の写真はドームの向こうに見える35階建て高さ150mのビルの33階から。


the Atomic Bomb Dome

もっとずっと高いところで炸裂した1発はほぼ見渡す限りを一瞬でなぎ倒し炎で包んでいく。今の街の中でドームは決して大きな存在ではない。もっと人に近い大きさの建物ばかりだったとはいえ、その熱さや痛み、苦しみを誰が想像しうるのだろう。

southern Hiroshima with dome





今手元にあるマッチの火でも一瞬触れた程度ならば大抵やけどはしなくて済むのに。一瞬にして多くの人の命を奪う光や爆風ってなんなのだろぅ。。。水爆の父テラーの様にこのちからを喜んだ人たちも居るけれど、多くの科学者たちは自分の探求心や才能を活かして愛する人たちを護りたかった。「数」では理解していても現実として想像を超えて自分たちの作り上げてしまったものに対して恐怖を覚えた。。。
少し前の世の中ではとても偉い人が住んでいた高さ150mのホテル北側の広島城。もちろんこれも吹き飛んだ。。。



次の景色は爆心地東南2キロほどの比治山富士見展望台より。長崎で迎えた朝のように明けていく広島を眺めたくてタクシーの運転手さんにリクエスト。思いがけず小学生のころから頭の中で想像していた旧ABCCの傍だった。富士見展望台からはすでにビル群で遮られ原爆ドームを見ることは叶わない。しかしあの日この足元の比治橋より写真手前側まで倒壊し、火災にも見舞われたらしい。。。その後旧ABCCにて治療というより「調査」が行われ続けた。被ばく者の方達はどんな思いでABCCに足を運んだことだろう。。。。別れ際、そう年の変わらぬ運転手さんも実は被爆二世であられることを明かしてくれた。。。。どうぞ長くお元気で(お気持ちはお辛いだろうけれど)是非世界からお見えのお客様たちに色々なことを伝えてくださりますよぅに。。。。

ABCC on Hill of Hiji
ABCC:原爆傷害調査委員会

Hiji Bridge from Hill of Hiji

爆心から東に1.2キロ。中国四国では一番大きいらしいエリザベト音楽大学の中に世界平和記念聖堂というカトリックの教会がある。戦前この地に存在したカトリック幟町(のぼりちょう)教会の人たちが被災後地域の人たちを救いつつ、世界に呼び掛けて建てた教会。
間接的に私自身が原子力の平和利用にたどり着けた大きな要因であろうかたに森一久氏というかたが居られた。たまたま出会った「湯川博士、原爆投下を知っていたのですか」という伝記によると、あの日幟町のご実家で近くで産婦人科医をされていたお父様とともに生き埋めになっているのだそう。あの高層ホテルのあたりに出かけるといったきりのお母様をはじめとして当時広島に滞在していたご家族を皆無くし、生死をさまよい生還。当時湯川秀樹氏の愛弟子。博士の言葉もあり、悩んだ末原子力の平和利用を内側から見守り、その初期から原子力賠償の不備を指摘され、2000年代初頭に原子力発電所ごとの電源車配置の必要性を訴えられたかた。しかし、経済性等々を理由にされて叶わず。田原総一朗氏等々にも当時の陰のドンと言わしめた人の様だけれど…米国や正力氏らにとってはこの人さえ黙らせられたら、騙せれば、原子力の開発は思いのままというバロメータだったのではないか?とさえ思う。命がけで向き合った森氏でさえ晩年振り返ると「どこまでつづく ぬかるみぞ」ととてもやりきれない思いを抱え続けておられる。。。
科学者や多くの官僚・役人の知る術もないところで大切なことが動かされる原子力であり日本の政治なのだな…と痛感するこの数年。特にこの15年ほどは世の中全般 小さな暮らしのシーンでも声をあげた人たちは封じられ続け、分断され、昨今になり多くの人が生活に窮して気づいたころにはナントモナラナイ日本の現実の中…だけれど、いつかきっと心ある世の中を取り戻せることを信じていきたい。軍需景気と浮かれる時代は遠い過去。産業革命・戦後の成長を経て永遠なる右肩上がりの経済はありえない。もともと大きな価値観の転換が必要だった現代。コロナも相まって世の中全般が窮し 様々な情報を与えられる中でもどうぞ人らしいあたたかい道を選びとって進んでいけますよぅ。。。

for World Peace
世界平和記念聖堂
幟町カトリック教会
Nobori-Cho Hiroshima

平和祈念館
the Memorial Hall
(in the Peace Memorial Park)

記念式典等で原爆の影響を伝えるところとして最も知られている広島平和記念資料館 は近年リニューアルされているが、原子力発電の導入を前に、日本各地で行われた原子力平和利用博覧会はここでも1956年に開催されている。確かに原子炉と原爆とでは起きていることは異なるけれど…もとは同じものからおきる現象。広島の人たちはどんな気持ちで眺めておられたことだろう。。。(まぁ、プロ野球の普及拡大等々も相まって米国への感情は調整されたのだろうけれど…)
資料館の北、慰霊碑の東にある平和祈念館にて2021年に1年近くにわたって幟町の教会の資料を基にした展示が行われていた。気づけていたのだけれど結局足を運べるチャンスはなかった。幸い、展示の30分のフィルムがインターネットで公開になっている。語りに沿った当時の地図や写真、再現シーンを見ながら当時を垣間見ることができる。日本語とともに英語の字幕も。今時の地図と較べれば距離感もより鮮明になる。是非一度覗いてみてほしい。2022年3月からの企画展は被ばくしながらもキノコ雲をカメラにおさめた元少年たちの記録。苦しいかもしれないけれどこれが現実。戦時中の若者たちが戸惑いながらも写し取った光景たち。是非たくさんの人の目に触れますよう。祈念館のサイトには英語などでの対応も(未リンク)。過去10年ほどの企画展の映像も見られる。正式名称は下記
- 広島平和記念資料館
- 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 加えて
- 広島市 市民局 国際平和推進部 平和推進課
- ひろしま観光ナビ 広島県公式観光サイト
- ひろしまピースツーリズム なども参考になります
